2009年 10月 09日
「しさる(退)」あれこれ (終)
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現代語に用いられる「あとずさり」の形は、すでに江戸後期に出現しています。



滝亭鯉丈(りゅうてい りじょう)の著した滑稽本『八笑人』は文政三年(1820)に初編が刊行され、その後次々に続巻が発表された当時の人気作品です。その翌年に刊行された二篇には次の例があります。

コレサしやれて居てはいかネへ。そして其様(ソウ)跡ずさりをせずと、たゞ腰で少シこたへるおもいれをさつしナ。

ここに見るような「あとずさり」は、すでにこれまでに見たように、「あとすざり」から転じたものです。ここに起きたのは濁音拍が一つ前に移動する現象ですが、なぜこのようなことが生じたのでしょうか。

二語が複合する際には、後に来る構成要素の語頭が濁音化することがあり、このような現象は「連濁」と呼ばれます。「あと」が先行する複合語には、「あとがき(後書)」「あとがま(後釜)」「あとざき(後咲)」「あとじり(後尻)」など多くの連濁例が見られます。

ところで「あとずさり」では、初めから「あと」と「すさり」が複合したのであれば何の問題もありませんが、「すさり」から「すざり」に移行した後に複合が起きた場合には、後部要素の濁音拍に阻害されて「あと・ずざり」にはならずに「すざり」の原形を保ったまま前項と結びつくことになります。

しかしこの「あとすざり」は、他の連濁形の大勢に従わない点に不自然さを感じさせるところがあるため、後に「あとずさり」の方が連濁規則に叶った形として意識されるようになり、次第にこの形への傾斜が生じたと見ることができます。

これは、「した(舌)」と「つづみ(鼓)」の複合において起きた「した・つづみ」が、別に「した・づつみ」の形を生じたことを想起させます。ただしこちらの例では、別に「-つつみ(包)」の連濁形にあたる「-づつみ」があり、これへの類推もはたらいたと考えられる点にいささかの違いがありますが。

「あとずさり」「あとじさり」は、本来からすればなまった形ということになりますが、ことばにこもるいのちは、そのような穿鑿をはねのけて、現代における流通を見せるに至っています。
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*撮影機材:PENTAX K-7 +SIGMA17-70mm f2.8-4.5 DC MACRO
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by YOSHIO_HAYASHI | 2009-10-09 12:06 | 言語・文化雑考


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