2007年 03月 21日
なんでボケなんて名前なんでしょう (その4)
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昨日引用した『日葡辞書』には、植物名の Boqe. に続いて次のような見出しがあります。



 Boqe,uru,eta. ボケ,(ボ)クル,(ボ)ケタ.

この辞書では、動詞が見出しに立つ場合には、原則として、基本形・現在形・過去形の三つの形を掲げます。これは西欧の文法を日本語に適用したものです。

この見出しだけを見ると、あ、これは《惚ける》の意を表す動詞のことだな、と思いたくなりますよね。
ところが案に相違して、その語釈には次のようにあります。

種々の色が淡紅色のように見える. 比喩.Cocorono boqeta fitogia.(心のぼけた人ぢゃ) 気持ちの穏やかな,気だてのよい人である.   (日本語表記は『邦訳日葡辞書』<岩波書店>による)

意外なことに、この時代には《気だてのよい人》のことを「心のぼけた人」と言ってたんですね。

この時代のボケル(当時は下二段型のボクルを使用)が表す意味は、今使っているボケルのそれとはほとんど対極の位置にあったことが知られます。

なお、われわれが今用いているボケル(惚)は、この語とは同音ながら別の語と見るべきです(これに関しては、拙著『やまとことばの散歩道』「ノラネコ」の項 p.233 を参照)。

ところで、昨日の「ボケ(木瓜)」の項には次の子見出しがありました。

 Boqe iro (木瓜色) この花の色のような赤色,または,淡紅色.

ここに言う「淡紅色」が、上記の動詞の語釈に見える「種々の色が淡紅色のように見える」と重なる点が注意されます。

これは、当時の人たちの言語意識の上では、動詞のボケと植物名のボケには通底するものがあったことを示すものです。そうすると、当時の人々は、この木の花をボケと呼ぶことに対して、われわれが抱くような違和感を持ってはいなかったらしいことも見えてきます。

われわれがボケ(木瓜)という名前に対して抱く語感は、本来別の語であった《惚け》の意を表すボケに"汚染"されて生まれたものと考えることができます。

言葉の形や意味ばかりでなく、語感もまた時代によって移り変わるものであることを、このささやかな考察を通じて、改めて教えられた思いがします。(この項終り)

冒頭の画像には、天然乾燥もののボケの実も一緒に映ってます。瓜の形をしていることがなんとか看取できますね。

都心では昨日、全国に先がけて開花宣言が出されましたが、国分寺の桜のつぼみはまだまだ硬く、ちらりとピンク色を覘かせているつぼみが散見される程度です。

白絵さんも城尾さんも元気です。
今朝は、彼女たちの縄張りから遙かに離れた地点で、なにやら血統書付き風の面相をしたにゃんこに遭遇しました。散歩の折には常時携帯している名刺代わりには見向きもしなかったところを見ると、キャットフードに慣らされた家猫なんでしょうね。
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*撮影機材:R-D1+NOCTILUX-M50mm f1.0(2nd generation)
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by YOSHIO_HAYASHI | 2007-03-21 05:35 | 言語・文化雑考


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