2007年 03月 26日
三味線草
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朝の散歩道の路傍に、三味線草がひっそりと花を付けていました。



昨日引用した蕪村には、この草を詠んだ次の句があります。

 妹が垣ね三味線草の花咲きぬ     *垣ね = 垣根

「安永九年(1780)几菫(きとう=京都の俳人)初懐紙」に収められた作品です。

「三味線草」は、「春の七草」の一つ、ナズナの別名で、実の形が三味線のばちに似ているところからその名があり、もう一つの別称「ぺんぺん草」もまた、三味線の音から来たものであることはよく知られていますね。

ところで、上掲句の初五は、素直に読めば イモガカキネ と6音の字余りになりますが、『図説日本大歳時記』(講談社)では「妹」に「も」のルビを振って、これをモガカキネ と読ませています。

これは初五が字余りになるのを嫌って5音に読ませようとしたものでしょう。

愛する女性を指す「妹」をモと読んだ例は、確かに『万葉集』などに見ることができますが、それは「家の妹(モ)」とか「吾妹(ワギモ)」などのような形で用いられた場合に限られます。

なぜイモがモになるかというと、それはイモの頭音がイという母音であるために、これが語中に来ると、その前の音節末にある母音との競合が起きるからです。

上掲の例について言えば、「家の妹」では 本来の ienoimo の音列には o と i が隣り合っているし、「吾妹」でも wagaimo の音列中で a と i が連接してしまいます。

こういう事態が起きるのは、古代日本語にとっては好ましくありません。そういうことが起きようとする時には、なんらかの形でその連接を食い止めようとすることばの力がはたらいて、それを安定した形に変えてしまいます。前者は、o に続く i を脱落させて ienomo になり、後者ではこれとは逆に、i の前の a を脱落させたものです。

つまり古代日本語では、イモ が モ になるのは、必ずそれが語中に来る場合に限られ、「妹が垣根」のように、イモが語頭に立つ場合にはそのような脱落は起きません。その必要がないからです。

また古代の和歌では、五や七の音単位の中に母音音節が含まれている場合には、字余りを起こしてもさしつかえありません。和歌と俳句は同列には扱えない、と言われればそれまでですが、このようなことがらに立脚すれば、イモガカキネと読んでもなんら問題はないはずです。

モガカキネなどという語形は、日本語の音韻規則の上から見れば、足が地についていない"幽霊語"であると言わざるをえません。

俳句の初五に字余りは好ましくないなどという戒律めいた先入観に捕らわれたり、辞書にそういう見出しがあるからというだけの安易な態度で古語に接すると、往々にしてこのような空中楼閣を築いてしまいます。

毎朝定点観察をしている桜はまだ若い樹なので開花が遅いようですが、それでも桜色がそこかしこに姿を見せはじめました。それが全部の枝に広がるのも、もうすぐです。
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 *撮影機材:R-D1+NOCTILUX-M50mm f1.0(2nd generation)
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by YOSHIO_HAYASHI | 2007-03-26 13:14 | 身辺雑記


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