2006年 05月 19日
湯屋の看板(1)
f0073935_6155028.jpgこれは、すでに5月15日の"「芭蕉サミット」(その2)"の中で触れた、北千住「大黒湯」の正面写真です。

この銭湯の創業は昭和四年(1929)といいますから、建造以来今年で77年目を迎えることになります。建物の外側ばかりでなく、内部の高い格天井(ごうてんじょう)には、100枚を越える画が描かれていて、一見の価値があります。もちろん、立派な富士山のペンキ画も、浴槽の壁に描かれています。



私がこの銭湯に惹かれたのは、このような偉容を誇る建築のすばらしさもさることながら、それとは別の、もう一つの理由からです。

上の写真を見ると、屋根の軒下左側に何かが下がっています。
これをさらに近距離から撮ったのが次の写真です。

f0073935_67514.jpgここには竹製の弓と矢が吊されています。ところで、これはいったい何のためにあるのでしょうか。

この謎を解く鍵は、江戸末期に喜多川守貞(1810-?)が著した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』の中に隠されています。

この文献は、天保八年(1837)に起稿され、嘉永六年(1853)にいったん脱稿ののち、さらに慶応三年(1867)に加筆されたもので、近世末期の江戸と大阪のありとあらゆる民俗・風俗を項目別に分類し記述した、江戸のエンサイクロペディアです(『日本古典文学辞典』「守貞謾稿」の項による)。

その中に次のような項目があります(朝倉治彦編『合本 自筆影印 守貞漫稿』<東京堂出版>の複写による)。

f0073935_682023.jpgこの写真右側の画の下には、このように記されています。

古ノ湯屋ノ招牌(=看板)也。
ユイイルト云謎也。「射入ル」-「湯ニ入ル」ト、言近キヲ以(もっ)テ也。


これはまさに、大黒湯の正面軒先に下げられた、謎の物体の正体を明かす記述です。

守貞はこの模造の弓矢を「ユイル(「湯入る」の江戸なまり)」の意を表すものと解し、「射入る」と「湯に入る」が似た言葉なので、これを謎かけにしたものだと説明しています。

これは、「ユミイル(弓射る)」に「ユニイル(湯に入る)」を掛けた洒落と解くこともできそうですが、いずれにせよ、大黒湯の軒先に下げられていたものは、江戸の遊び心の表れともいうべき、湯屋の謎かけ看板だったわけです。

さらに注意したいのは、守貞がこれを「古(いにしえ)の湯屋の招牌(=看板)」であると記述している点です。この時代になると、湯屋の看板は写真左側の挿絵のようなものに変わっていたことが、画の下の説明文に記されてあります。

守貞の時代にすでに古いものになってしまっていた古式の湯屋の看板が、現代もなお大黒湯に受け継がれているのは、まことに驚嘆すべきことです。

このような江戸文化の名残を今に伝える、北千住の懐の深さを知って、私はますますこの街が好きになりました。(この項続く)

2006.08.26付記
その後、式亭三馬の『浮世風呂』前編巻之上(1809年刊)の「朝湯の光景(ありさま)」にも次の記事のあることに気付きました。

 ▲むかしは銭湯の看板に、矢のかたちを木にてつくり、門口の目印としたり。
 弓射(ゆいる)といふ心なるよし、古き絵さうしにまゝ見及びぬ。今も遠境には
 用る所あり。

「遠境」どころか、現代でも江戸のお膝元千住の街に残されていることを知ったら、三馬はさぞかし驚くことでしょうね。

*撮影機材:RICOH GR-DIGITAL 28mm f2.4
[PR]

by YOSHIO_HAYASHI | 2006-05-19 06:16 | 言語・文化雑考


<< 湯屋の看板(2)      地口行燈 #3-5 >>