2006年 09月 17日
「けんど、わたしは五十年もまへに棄てられた嬰児で、親の料簡がわかるわけはありませんきに。きつと、この遍路岬に道中して来る途中、嬰児を持てあましてゐるうちに、誰ぞにこの宿屋の風習を習ひましつらう。たいがい十年ごつといに、この家には嬰児が放つたくられて来ましたきに」 この話には、オカネ・オギン・オクラを名乗る三人の棄て児の婆さんが登場します。 ここに見える「習ひましつらう」は、《習ったのでしょう》の意を表す土佐方言。古語の助動詞「つ・らむ」が中世に「つ・らう」に形を変えて、この作品の発表された1940年まで保存されていたことに感慨を覚えました。この短編の地の文には、《ひどく年を取った老人》の意を表す「極老のお婆さん」という珍しい言葉も使用されています。 同じ日に、今度は市内の図書館から借りてきた、ドイツ文学者・文筆家池内紀氏の紀行文を集めた『マドンナの引っ越し』(晶文社)をソファに横になって読んでいたところ、その中の「ホテル"神の眼"」という作品にこういう箇所がありました。 ある朝、教会前にゆり籠が置かれ、産衣にくるまった赤ん坊が眠っている。親がわからないときは神のみこころとして修道院で育てられた。それがいまなお存続しているとは知らなかった。 きまって十年に一度くらい、そんなことがあるそうだ。ホテル名についている「兄弟姉妹」の意味がわかった。いつごろからはじまった習わしかとたずねると、「ずっと前から」だと男は答えた。 こちらは2002年に刊行された小品集です。 土佐の遍路宿とイタリアの田舎ホテル。洋の東西のへだたりこそあれ、同じ"習わし"が残っていて、十年に一度くらい捨て子があるというところにも共通点のある作品に、同じ日に二度出会うという、偶然性に満ちた読書体験に感興を覚えました。文学研究の分野でよく論じられる"影響関係"は、両作品の間にはないと思われます。 最後の写真に写っているアスパラガス風の植物は、家の近くの道路脇に生え出たもの。何でしょうね、これ。 *撮影機材:R-D1+NOKTON classic40mm(SC) f1.4
by YOSHIO_HAYASHI
| 2006-09-17 07:46
| 身辺雑記
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